「主の名を恐れる者には」(礼拝メッセージ2020/03/29)

マラキ書は旧約聖書の最後の書で、年代はBC460~430年頃のものと考えられ、マラキは、エズラ、ネヘミヤの改革に与ったようです。「マラキ」は「わたしの使者」の意です。民は、預言者ハガイ、ゼカリヤに励まされて神殿を再建しましたが、預言されていた王国の希望・栄光・繁栄は実現せず、かえって凶作になり、それらに失望して不信仰になっていました。
マラキは、民の不信仰と不誠実な生き方を糾弾し、悔い改めて主に聞き従うように勧めます。そして、来るべきメシヤと先ぶれとなるバプテスマのヨハネの現れの希望を預言しました。

1.冷え切った神様への愛

神様は、マラキを通してご自身の変わらない「選びの愛」を宣言します(マラキ 1:1~3)。しかし、神様の愛とは裏腹に人々の神様に対する心は冷え切っていました。厚顔無恥な民は、神様の指摘に対して「自分たちはちゃんとやっている」とうそぶきます。
主は民の主の名を蔑む行為として、自分のためには価値のある良いものを取っておき、盗んだ汚れたパンや欠陥のある価値のない動物を神様に献げる行為、形式的な心のない礼拝(マラキ1:6~14)、呪術、姦淫、不正、神様に対する盗みと傲慢(マラキ3:5~15)を指摘しています。

『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。マラキ 1:13

・・・十分の一と奉納物においてだ。・・・あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。・・・十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。マラキ 3:8~10

2.離婚・雑婚問題

神様に対する冷淡さと無関心さは、人間関係・夫婦関係への冷淡さに現れてきます。神様との契約が軽んじられて、人々は自分中心の生活へと陥って行きました。年長の者、指導的立場の者が糟糠の妻を捨てて若い外国(異教)の女を妻としていました。そのため、家庭生活はいつも苦悩に満ちていました。(マラキ 2:10~16、エズラ9,10章、ネヘミヤ13章)

・・・異国の忌み嫌うべき習慣と縁を断つことなく、・・・しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。 エズラ 9:1,2

3.最後の審判と来るべきエリヤ

旧約聖書の最後に、主を恐れる者への祝福、審判の日の前に最後の預言者バプテスマのヨハネがメシヤの先駆者として遣わされることなどが預言されました。その後、400年の沈黙の時代(中間時代)を経て預言は成就しました。主は、へりくだって主を恐れる者を愛してくださいます。

わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。 マラキ 4:2

見よ。主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。マラキ 4:5(マタイ 17:10~13)

タイトルとURLをコピーしました