指導を受ける者の幸い(礼拝メッセージ2011/02/06)

 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。マルコ 6:30~34

 イエス様は本当に優しい方です。まず、弟子たちをゆっくり休ませようとされました。そして、群衆をあわれんでみことばを語られました。身近にいて生活の中で指導を受けた弟子たち、深いあわれみをかけていただいた人々、なんと幸いだったことでしょうか。
 私たちには、イエス様からのみことばによる指導と教会の指導が不可欠です。

 指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。箴言 11:14
 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。箴言 1: 5
 
 指導してくれるイエス様(みことば)、指導してくれる教会(霊的指導者)がいなければ健全な信仰生活は望めません。そこに自分の身を置く努力(へりくだり)が必要です。
 
しかし、いくらすばらしい指導があっても、それをイエス様からのものとしてへりくだって受け入れる心がなければ自己中心の思い、自己中心の生活のままです。

 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。                  Ⅰペテロ 2:25

 私たちは、イエス様を信じる前までは、何もわからずにさまよい続けていました。しかし、今、イエス様の指導の下に入れていただいたのです。イエス様の監督の下に帰ることができたのです。そうであれば、その監督の指導を受けるのは当然です。
 具体的にその指導による生活とは、国に(Ⅰペテロ2:13)、主人(社長や上司)に((Ⅰペテロ2:18)、夫に((Ⅰペテロ3:1)従い、妻を尊敬し((Ⅰペテロ3:7)、兄弟姉妹を尊敬する((Ⅰペテロ2:17,3:8)生活です。指導を受ける者は幸いです。

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