幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。
私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」 詩篇 41: 1~4
誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。
詩篇 41:12~13
詩篇41篇はダビデの賛歌です。この詩はとても矛盾したことばで謳われています。
■「私はあなたに罪を犯したからです。」
■「誠実を尽くしている私を・・・・・」
どうして神様に罪を犯したダビデが誠実でありえるのでしょうか。ダビデに悪をたくらむ敵とダビデにどんな違いがあるのでしょうか。この41篇から4つの違いがわかります。
①弱っている者にやさしくする。 1節
②罪を悔い改める。 4節
③赦しを求める。 10節
④主を信頼している。
ダビデは悪をたくらむ者たちとなんら変わらない罪がありました。しかし、彼は罪を赦してくださる主に心から信頼していたのです。彼は「信仰」の人でした。(Ⅱ歴代誌6:42~7:1)
信仰生活を送る私たちは、自分の罪深さと弱さによってがっかりして救われたことすら疑ってしまうことがあります。しかし、主は、私たちを「悔い改め」も含めて「忠実な者」と呼んで下さいます。
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ 4: 6~8