「大切なイースター」(イースター礼拝メッセージ2020/04/12)ヨハネ 11:1~11:46

四福音書で、主イエスの最後の1週間を扱った記事に多くのページが割かれています(別資料参照)。主イエスが歩まれた十字架と復活の歩みを一緒にたどることはとても大切です。

【背景】ヨハネが福音書を書かなければならなかった理由
イエス・キリストの十字架と復活はAD30年頃です。それから60年以上経過して福音はすでに当時の世界に浸透しており、使徒パウロの宣教は終わり、エルサレム神殿は崩壊し、ユダヤ人は離散を余儀なくされていました。異邦人クリスチャンは迫害や異端との戦いを迎えつつありました。
すでに共観福音書が書かれていたにもかかわらず、ヨハネが是が非でも書かねばならなかったのは主イエスの十字架と復活です。100歳近い老練なヨハネが、7つのしるしの最後の記事でラザロの生き返りの奇跡を記し、「主イエスこそいのち」なのだと取り上げた書がヨハネの福音書です。

【神のグッドタイミング】愛する者が病気であると聞けば、何を差し置いても急いで駆けつけるのが普通です。けれども主イエスは急いでおられませんでした。愛すると言いながらこの姿勢は矛盾のようにも思えます。
ラザロの4日間の放置は絶望であり、マルタ(11:21)もマリヤ(11:32)も嘆きました。仏教哲学などは「人間にいつか死はやってくるもの、人それぞれに定めが決まっている」と運命的に考えています。一方、聖書は「死は人間の罪がもたらした結果」としてとらえ、肉体的な死がすべての終わりではないと教えています。⇒ヨハネ11:25
愛するというのであれば、すぐに駆け付けるのが当然ではないか!しかし、人間的に後れを感じても、神の目から見ればベストタイミングがあり、決して私たちの心の叫びに耳を閉じられたわけではないのです。神が私たちになされるみわざは、物理的だけではなく人間的成長、信仰の成長を思い、これらすべてが神への感謝と栄光につながっていきます。
病気(次々と問題やトラブルが起こる)だから神に愛されていないなどということはない。生涯病に悩まされたクリスチャン作家の三浦綾子さんは「病は神からのプレゼント」と告白しています。
主イエスは「わたしが復活であり、いのちである」と言われます。主イエスのおられるところに、復活といのちがあります。なぜなら、主イエスご自身がまさに復活であり、いのちそのものだからです。

【結論】主イエスはもう一度来られると聖書は記しています。何のために来られるのでしょうか?それは死んだ者を生かすため、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるためです。誰のもとに来られるのでしょうか?「あなたが愛しておられるもの」と言われたラザロのもとに来られたように、主イエスが愛しておられるあなたのもとに来られるのです。
ラザロは完全に死にました。人はもはや何もなすことはできない。ただ主イエスの愛にゆだねるほかない者の姿を聖書は語っています。それでも主イエスは、そういうラザロをお見捨てにはなりませんでした。ラザロを愛すると言われ、墓からいのちへ呼び出してくださいました。
復活というのは、神の愛のわざです。そこには確かにしっかりと復活の主イエス・キリストの手が差し出されています。私たちを死からいのちへと呼び出してくださる主が立っておられます。      (藤島昇 兄)

タイトルとURLをコピーしました