礼拝メッセージ

礼拝メッセージ

「心の打ち砕かれた者」(礼拝メッセージ2018/09/30)

神様は心の砕かれた人のそばにおられ、 謙虚に罪を悔いる人を助け出されます。     詩篇 34:18 (LB訳) 神様が「立派な人、信仰深い人、高額献金者、能力のある人、人格者、神様の奉仕者」とだけいっしょにいてくださるとしたら、私たちに希望はありません。しかし、神様は「心の打ち砕かれた者」といっしょにいてくださると約束しておられます。(イザヤ57:15) 1.行いではなく、へりくだり まことに 私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。 神へのいけにえは、砕かれた霊。 打たれた 砕かれた心。 神よ あなたはそれを蔑まれません。       詩篇 51:16,17 神様に対するささげ物や奉仕はとても大切ですし、神様に喜ばれます。しかし、信仰とへりくだりのないささげ物や奉仕は、いくら「すばらしいでしょう。こんなに一生懸...
礼拝メッセージ

「うむことのない祈りの生活」(礼拝メッセージ2018/09/23)

あなたがたの祈り〔の生活〕に真剣でありなさい〈うむことのない《ゆるぐことのない》ものでありなさい〉。感謝をもって〔祈ることに〕油断しないで〈〔また〕心を集中させて〉いなさい。コロサイ 4:2 (詳訳) 祈りの生活とは、主イエス様に頼る生活です。自分に都合の良い結果を神様に無理矢理に求めることではありません。祈らない生活とは、主イエス様に頼らない、自分の思いのままに歩む生活です。 聖書は、油断することなく、主イエス様に真剣に祈り頼る生活をするように命じています。 1.目をさましていなさい ・・・誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。・・・。 マタイ 26:36~46 主イエス様は、ゲッセマネの園で十字架刑を目前にして、苦しみもだえながら祈っておられましたが、ペテロとヤコブとヨハネは三回も眠りこけてしまいました。目を覚まして祈っているようにと命じ...
礼拝メッセージ

「自慢の種になれ」(礼拝メッセージ2018/09/16)

孫は老人の自慢の種、父親は子供の尊敬の的です。箴言 17:6 (LB訳) 明日は「敬老の日」です。1965年「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」として国民の祝日に制定されました。 聖書では一貫して、目上の人、老人に敬意を払い大切にするように命じています。それが私たち自身の祝福と平安と長寿につながります。 あなたを生んだ父の言うことを聞け。 あなたの母が年老いても蔑(さげす)んではならない。 真理を買え。それを売ってはならない。 知恵と訓戒と分別も。 正しい人の父は心躍らせ、 知恵のある子を生んだ人はその子を喜ぶ。 あなたの父と母を喜ばせよ。 あなたを産んだ人を楽しませよ。 箴言 23:22~25(30:17) 1.父母への尊敬 聖書は十戒の第五戒、対人関係における最初の戒めとして「両親への尊敬」...
礼拝メッセージ

「いつも主にあって喜びなさい。」(礼拝メッセージ2018/09/09)

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。ピリピ人への手紙 4:4 パウロは、自らが囚われの身となって、獄中という大変な状況にありながら、なぜそこまで自らが喜び、しつこいくらいに「喜びなさい。喜びなさい。」と命じているのでしょうか。 1.「喜び」の根拠 私たちには主イエス様の十字架と復活による救いが与えられています。主イエス様の十字架を信じないで、地上のことだけを考えて自分の欲望に従う人は、永遠に滅ぼされてしまいます。 1)私たちの国籍は天にある。           ピリピ 3:20 2)主は近い。〈主はすぐにおいでになります。詳訳〉ピリピ 4: 5 3)神様の平安がある。              ピリピ 4: 7 2.主にあって パウロが命じているのは、あくまでも「主にあって」ということが前提です。主のみことばと約束、主に...
礼拝メッセージ

「キリストを住まわせる信仰」(礼拝メッセージ2018/09/02)

どうか、キリストが、あなたがたの信仰を通して、あなたがたの心のうちに〔現実に〕住んで〈定住して、滞在して、そこをご自身の恒久的な家として〉くださいますように。どうか、あなたがたが、愛の中に深く根をおろした者となりますように〈愛の上に基礎を堅く据えられた者となりますように〉。    エペソ 3:17(詳訳) パウロは、私たちのうちにキリストが一時的な仮住まいではなく、永住してくださるようにと、とりなしの祈りをしています。全てのクリスチャンは、イエス様の救いを信じた時に聖霊様の内住をいただきました。聖霊様=神様の霊=キリストの霊(ローマ8:9)ですから、イエス様が内住してくださっているということができます。 1.信じる者に内住される聖霊様 イエス様が救いを成し遂げられ、復活し、昇天された後、聖霊様が降臨されました。聖霊様は信じる者に内住し、イエス様の栄光を現しておられます...
礼拝メッセージ

「私たちの天の父よ」(礼拝メッセージ2018/08/26)

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいますわたしたちの父よ。    マタイ 6:9 私たちは、栄光に満ちた天地の主、創造主、主権者であられる神様を、親しく「お父様」とお呼びすることができる恵みをいただきました。 イエス様は、ご自分のお父様を独占せずに、ご自身が長子となられ、私たちを弟妹として下さいました。イエス様の天の父は、私たちにとってもすばらしいお父様です。 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。ローマ 8:29 1.平等なお父様 天のお父様は、全ての人に対して分け隔てのない平等なお方です。 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 マタイ 5:45 2.良いものを与えてく...
礼拝メッセージ

「見ないで信じる幸い」(礼拝メッセージ2018/08/19)

トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」  ヨハネ20,28,29 「見たから信じた」とは、「見ていないから信じない」ということです。イエス様は、見ないで信じる者こそが幸いだとおっしゃいました。 1.大切なものがすべて見えるとは限らない 人間に見えているのは、電磁波の内のごく一部の可視光線だけです。ましてや、生活圏外、霊の世界、過去・未来、ほとんどが見えていません。「見えるものしか信じない」ということは、不合理で非現実的です。 聖書は、見えないものこそ大切なものだと教えます。それは、救いであり、永遠の命です。見えないからといって信じることをやめて不信仰に陥ってしまえば、最も大切なものを失ってしまいます。 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留...
礼拝メッセージ

「すべての人に祈りと感謝を」(礼拝メッセージ2018/08/12)

そこで、私がまず第一に勧める〈強く訴える〉事は、願いと祈りととりなしと感謝とが、すべての人々のためにささげられ、王たちと権威〈重い責任〉の地位にあるすべての人々とのために〔ささげられる〕ことです。それは、私たちが、あらゆる面において全く信仰深く〈敬けんに〉、また謹厳さをもって、〔外的に〕静かな〈落ち着いた〉、そして、〔内的に〕平和な生活を送るためです。このような〔祈り〕は善い事〈正しい事〉であり、私たちの救い主である神に喜ばれる〈受入れられる〉事です。この〔神は〕、すべての人々が、救われて〔神の〕真理をますます明確に〈正しく〉悟る〈認める〈見分ける〈知る〉ことを、望んでおられるのです。〔その真理とは〕神は〔唯〕一であるということ、そして、神と人との仲立ち人も〔唯〕一、すなわち人間キリスト・イエスである、ということです。この〔キリスト〕はご自身をすべての〔人々の〕ために身のしろ金としてお与...
礼拝メッセージ

「神様による調和」(礼拝メッセージ2018/08/05)

神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させて下さったのです。           Ⅰコリント 12:24(第2版) 調和とは「全体がよくつりあって、矛盾や衝突がなく、まとまっていること」です。神様は、人体を調和のとれた完全な、素晴らしいものとして創造されました。同様に、イエス様を土台とし、頭とした教会も調和のとれた完全な、素晴らしいものとして下さいました。 あなたは今、神様が調和させて下さっている調和の中にいますか。 1.民族、地位、立場、性別、貧富、能力の調和 すべてのクリスチャンは、神様の前に平等であり、一つの体です。 私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。  Ⅰコリント 12:13 2.賜物・奉仕・働きの調和 ...
礼拝メッセージ

「主イエスは、私たちの背きの罪ゆえに」(礼拝メッセージ2018/07/29)

この主イエスは、私たちの罪のために、裏切られて殺され、私たちの義認〈無罪放免〉を獲得するため《私たちを神の前においてすべての罪責から赦免することによって私たちの計算書を不足なしにするため》、よみがえらせられたのです。ローマ人への手紙 4:25(詳訳) 1.イエス様の死 天地の造り主・全能者・主権者・裁き主・神であられるイエス様が人となってこの世に来られたこと、33年の生涯を歩まれたこと、人々に裏切られ苦しみを受けられたこと、最後は十字架で死なれたこと、これら全ては私たちの罪のために行われたことでした。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい。それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 ...
タイトルとURLをコピーしました